われの船佛(ふつ)の大使(たいし)の水荘の前に及べるうす霧を分く 晶子
*( )内のひらがなは晶子自身がつけたルビです。
鉄幹の歌と同じく、中禅寺湖を巡る遊覧船に乗船した折の歌ですね。晶子53歳の時の歌です。
「水荘」は耳慣れない言葉ですが、「山荘」ではなくて海や湖に面した別荘という意味でしょう。
Hのヤンマーさんのご説明に、米屋旅館から3.4軒隣にフランス大使館の別荘がありまして 米屋の船で出かけたときに詠まれたものだそうです。 とあるので、歌に詠まれた情景がよくわかりますね。
晶子を乗せた船は、中禅寺湖に面したフランス大使館の別荘の前まで広がっている薄い霧を分けて湖を進んでいくのです。濃い霧ではないから、前方傍らの岸にあるフランス大使館の別荘のたたずまいもよく見えるわけですね。
この歌の魅力は、昭和初期の当時おそらくは現代よりももっと珍しかったと思われる欧風建築の”「佛(ふつ)の大使(たいし)の水荘」の前まで広がっている薄霧”を詠み込むことで、何となく本当に異国フランスに来たような幻想的な錯覚がほのかに生まれそうなことではないでしょうか。薄い霧のため、「水荘」は湖に浮かんでいるかのような錯覚まで起こりそうです。あくまでも、ほのかな錯覚ではありますが、とりわけ湖の霧というのは時によってロマンチックな雰囲気をかもし出すものではないでしょうか?
晶子は、この歌を昭和7年6月に「しら嶺葵」と題して「冬柏」に発表した2年後、昭和9年刊の改造社版『与謝野晶子全集』第6巻の章「冬柏亭集」に収録しただけではなく、その後も自選の岩波文庫版『与謝野晶子歌集』や新潮文庫版『新選与謝野晶子集』にも選んでいますから、気に入っていたのでしょう。
また、ホームズ様もこの与謝野晶子の歌をわかりやすく解釈して下さっています!
佛(ほとけ)の大使がわかりにくいですね。
前後の歌からヒントをさがしてみました。
中禅寺立木佛(たちきぼとけ)の千の手の指ざすところことごとく霧 晶子
遠き世に勝道法師山の木を佛心に變(か)へ大悲閣成る 晶子
男体山は勝道法師が修行のために開山した山です。その修行過程の中で、悟りを得た勝道法師は、森の木々に佛心を入れ、立木佛にした謂れ(いわれ)があるのじゃないでしょうか。現地に行き、観光案内でも聞けば分かるのですが。
その推測をもとに、冒頭の歌を読むと今、私を乗せた中禅寺湖の遊覧船は、佛の心が入った木々に囲まれた湖畔の小さな建物の前を走っています。そして、その建物の前には霧が深く立ち込め、船の舳先へさき)は、その霧を分け入っています・・・こんな風景になりますね。湖畔の一景を、手だれた筆使いで切り取った一首です。
ホームズ様と言えば「平成の鉄幹」。鉄幹(寛)の歌も絶妙に解釈&鑑賞して下さっています。
身をしばし湖上の船に任せたりゆく方(かた)に山ゆく方(かた)に浪 寛
中禅寺湖を巡る遊覧船に乗船した折の歌ですね。
デッキに座り、前方に見える男体山(なんたいさん)を仰ぎ、湖上の波を見つめ、しばし心を解き放していたのでしょう。湖畔は若葉で彩られ、ホトトギスの声も耳に届いていたことでしょう。
結句の「ゆく方に山ゆく方に浪」は、調べを重んじる寛らしいリフレインで彼の真骨頂であるおおらかな詠いっぷりが見られます。
昭和7年の作品ですから59歳の時ですね。
鉄幹(寛)の晩年は、自然との距離をぐんぐん近づけ、自然随順の歌風に変わっていきます。
苦節の末に辿り着いた穏やかな詩境がもたらした心豊かな作品だと思います。
男体山の説明がインターネットにありましたので転記します。
『日光山とも黒髪山とも二荒山(ふたらさん)とも呼ばれている。
西暦782年、下野の僧勝道が修行をするために開山、補陀落
(ふだらく)山がのち二荒山とあらためられ、これを「にこう山」と
読んで、日光の地名になったといわれている。』
前首の歌の前後にこんな歌も掲載されていました。
上記の説明を読み、歌を読むと味わえますよ。
桟橋に代へて積みたる石しろし男體山の倒影のうへ 寛
遊覧船の桟橋とは名ばかりのもので、石が積まれて目印になっている程度のもの。
その石の上に男體山(男体山)の峰の影が静かに落ちているという光景です。
三句目の「石しろし」の「白し」の一語に万感の思いを感じます。
鉄幹(寛)は風雪に耐えた白い石に自らの人生を重ね合わせたのかも知れませんね。
行小屋も荒れはてぬれば網小屋に如(し)かず二荒(ふたら)の湖のもと 寛
その昔は、修験を行うための小屋であったものが、今は荒れ果て中善寺湖で漁をするための網小屋になっている。その朽ちた網小屋を見ながら、時の流れに思いを馳せていたのでしょう。
やはり結句の「如かず二荒の湖のもと」がビシッと決まり読後感抜群です。さり気なく詠みながら、巧さが迸る作品です。
また、発表された「冬柏」巻末の編集後記としてこんな文章も載っていました。
自分達夫婦は六月十日に日光に赴き、湯本の南阯キ館に一泊、翌日も中善寺の米屋旅館に一泊し帰ってきた。山は若葉、杜鵑(ほととぎす)、河鹿の季節であり白嶺と前白嶺には残雪が望まれ、花は石楠、谷桃(やつもり)、あやめ、躑躅(つつじ)、紅色の残櫻のほか、湯本では艶麗草、しら嶺葵その他の高山植物の花を初めて目にすることを得た。
雨季のため小雨と霧霧の変化の急なことも、歌を詠む旅行に適していた。南阯キ館の主人夫婦は初面ながらも親切に待遇せられ、米屋旅館の主人も舊識として同じく歓待せられた。
鉄幹・晶子夫妻以外にも歌の仲間が同行し、都合十人近い小団体旅行であったようです。
旅館名の「南閨vは、なんけん?なんかん?のいずれかの読みでしょう。
「米屋旅館の主人も舊識(きゅうしき?)として・・・」と記載されています。
舊識とは古い知り合いという意味ですから、何度か米屋旅館には訪問したことがあったようですね。
Hのヤンマー様、貴重な資料をご提供下さいましてありがとうございました。
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