平家物語
( その一       )










  その一 
 

   まずは最初にやってきました、ここは鎌倉時代(かまくらじだい)
   武士が貴族を押しのけ、なり上がって政治の実権を握った最初の時代ですね。

     
ミケねーちゃん、鎌倉時代の西暦何年?

   西暦1千2百…、1千3百…。

    
 え?何年?

   う、うるさいわね!わかんないのよ、『平家物語』のできた時って、大ざっぱにしか…。

     
で、アキコとどういう関係?

   え…それは…あんまり深く考えないで、先へ行こう、先へ…。
   あ、質素な造りの町並みの向こうで、人だかりがしています。どうやらお寺で琵琶
   (びわ)の弾き語りが始まったみたいです。行って聞いてみましょう!

     「祇園精舎の鐘の声
(ぎおんしょうじゃのかねのこえ)、諸行無常の響き
      (しょぎょうむじょうのひびき)
あり。沙羅双樹の花の色(さらそうじゅのはなの
      いろ)
、盛者必衰の理(じょうしゃひっすいのことわり)を表す。おごれる人も
     久しからず、ただ春の夜の夢のごとし。…
ベベンベンベンベンベーンーー」 
     
(『平家物語』冒頭より)

   この弾き語り、今風?にすると…、
   インドでおシャカ様が仏教の教えで言っていた通り、すべての物は移り変わり、
   やがては消えてしまう…、どんなにいばっている政治家でも大金持ちでも、長く
   は続かない…永遠なんてないさ…。ってとこかな。

     
ミケねーちゃん、帰ろ!めちゃくちゃ暗い!不況の世の中にぴったりしすぎ!

   ちょいと待ってよ。琵琶
(びわ)って、ギターよりシブい音色の楽器なのね。それに、
   弾き語りしている、目が不自由なお坊さん、美形だし…!あ、この鎌倉時代よりも
   少し昔、平安時代のお話が始まった…『平家物語』の弾き語りって、時代劇の一人
   芝居みたいなんだ・・。じゃあ今度は、弾き語りワールドへワープ!

     
え〜?また〜?何やそれ〜?・・・ちょっと!待てっ!おいていくな!

 

  そのニ


   時は、平安時代の終わり、西暦1160〜1170年代。日本の首都は京都です。
  政治の実権を握っているのは、
平清盛(たいらのきよもり)。元は武士ですが、あの手
  この手で他の貴族や同じ武士のライバル源氏
(げんじ)を押しのけ成り上がり、今じゃ
  娘の
徳子(とくこ)を日本のトップ天皇のお后(きさき)にしたのでした。天皇も義理の甥
  (おい)だもの。

   
清盛の身分は、今は出家して引退した前太政大臣(さきのだじょうだいじん=前首相ね)
  
だけど、やる事なす事ゴージャス、歌って踊れる美人の芸者さんはみんな愛人にする
  わ、とっかえひっかえするわ、
平清盛の息子たちも兄弟その他親せきみんな大臣なん
  かに出世するわで、平家
(へいけ=平氏)の一族ににらまれたら最後、ヘタすると生きて
  いけません。「平家の一族じゃない人は人じゃない!」って
清盛の奥さんのお兄さんが
  言ったとさ。 法律上では、
清盛は家来のはずなのに。

   この時代の日本のトップは一応天皇だけど、最高権力者は天皇のお父さん ―だい
  たいが天皇を引退した人、
清盛がいばっていた頃は後白河法皇(ごしらかわほうおう)
  という人です― がもともと握っていたはずなのですが…。それに、お寺や神社も大勢
  力で、下っぱのお坊さんたちが武装しているんですよね。特にすぐお隣の滋賀県比叡
  山
(ひえいざん)の延暦寺(えんりゃくじ)なんてひどくて、もう京都のあちこちでチャンチャン
  バラバラ。みんながみんなお互い仲が悪くて、乱世の時代。

   
後白河法皇も、治承(じしょう)元年(西暦1177年)に部下の貴族たちと京都の東北、
  鹿谷
(ししのたに)で、「瓶子(へいじ→"平氏"のシャレ。お酒を入れるトックリの事です。)
  がこ〜ろんだ!」とか言って、平家を倒す反乱をこっそり計画したのですが、延暦寺
  のお坊さんたちとのいざこざ絡みで密告されて
清盛にすぐバレるんですね。後白河
  法皇
は京都の南の町外れ(鳥羽離宮(とば・りきゅう]という所)にむりやり閉じこめられ
  (ラチ軟禁ですね)
、平家への抵抗勢力はみんな処刑か島流し。

 
  そこで、反乱をたくらんだ人のうち、お坊さんの俊寛(しゅんかん)たち3人が鹿児島
  県の鬼海が島
(きかいがしま)へ島流しになった時の有名なエピソード。島流しになった
  のは3人だったのに、次の年に都に帰ってもよろしいと恩赦
(おんしゃ)が下ったのは、
  2人だけ。残された俊寛は、都へ帰る舟を追っかけて地だんだ踏んで泣くのでした。
   この事件は、後の時代に何度もお芝居や小説のネタになります。室町時代からは
  お能
(仮面劇ですね)で演じられているし、大正時代には劇作家の倉田百三(くらた・
  ひゃくぞう=『出家とその弟子』って劇を…)
や作家の芥川龍之介(あくたがわ・りゅうのすけ)
  それにあのメロドラマ『真珠夫人』の菊池寛
(きくち・かん)が・・・。

   
 ミケねーちゃん、それで、アキコはいつ出てくるのさ??

   う、もうすぐだから…。
   …で、晶子も大正時代に、平家物語の鬼海が島の絵に添えて歌を作ってます!


     
白雲と潮の煙と妄執(もうしゅう)の渦(うず)まく島の春夏秋冬   
     
(晶子歌集『流星の道』596番歌)

   鬼海が島の空の積乱雲?とか、荒海の波しぶきの煙とか、俊寛の「オレだけがなぜ
  帰れ・な・い!」っていうウラミつらみとかがごちゃまぜになって渦巻いている感じの風
  景ね。鬼海が島の一年の季節がそうやって何度も何度も過ぎていくのでした。

 

  その六
 

   寿永
(じゅえい)(西暦1185)3月24日、平家一門は、九州に面する壇ノ浦(だんの
  うら=山口県下関市)
の海でとうとう全滅しました。福原(神戸市)から太宰府(だざいふ=九州
  の福岡県)
へと移った後、福原近くの一の谷(神戸市)や屋島(香川県高松市)で、源氏(大
  将は源義経)
との"源平合戦(げんぺいがっせん)"をくり返した末でした。

   赤の軍旗を掲げた平家の舟が次々白旗の源氏に乗っ取られる中、
二位の尼(にい
  のあま=平清盛の妻)
は、孫の安徳天皇(あんとくてんのう)を抱いて身投げします。「尼ど
  の、わたしをどこに連れて行くのだ?」と、途方に暮れて聞くまだ8才の少年天皇へ、
  「波の下にも都
(みやこ)はございますよ」と言い聞かせながら。これを見た天皇の母
  
建礼門院(けんれいもんいん)つまり徳子さんも、続いて自分も身投げしますが、すぐに
  源氏方の武士に髪を熊手
(くまで=庭そうじとかに使うあのホウキ?ですね)にひっかけて
  引き上げられてしまいました。他の平家一門の武将には、討ち死にや身投げをする
  者も多い中で、生け捕られた後に処刑された者もいたのでした。

    源氏方に救い出され京都へ連れ帰られた
徳子さんは、その1ヶ月余り後に29才の
  若さで出家し、墨染めの衣を着る尼さんとなりました。昔あれだけ華やかな暮らしをし
  ていた彼女は、今や平家という後ろ盾を失い、大地震で家も壊れたため、秋には京
  都の街中を遠く離れた北、大原
(おおはら)の質素なお寺寂光院(じゃっこういん)へ移り
  ました。海に沈んだ亡き息子、つまり治承
(じしょう)時代から寿永(じゅえい)時代にかけ
  ての日本のトップ
安徳天皇や、親・兄弟たち平家一門が安らかに極楽往生できるよう
  に念仏を唱え勤行し続けたのです。そこに、次の年の4月
(今の5月)下旬、後白河法皇
  
(ごしらかわほうおう)がはるばる訪ねてきます。後白河法皇の目に映った寂光院の庭の
  ながめは…?

     「…青葉まじりの遅桜
(おそざくら)、初花(はつはな)よりも珍しく、(池の)岸の山吹
     咲き乱れ、八重立つ雲の絶え間より、山ほととぎすの一声も、君の御幸
(=後白
     河法皇の訪問)
を待ち顔なり。」(『平家物語』灌頂巻「大原御幸(おはらごこう)」より)

   2人はかつて対立する立場にいましたが、同時に嫁・しゅうとでもありました。
徳子
  んは、涙ながらに我が身のめまぐるしい移り変わりと、我が子や平家一門が死にゆく
  様子を、
後白河法皇に語り、死んだ人たちの極楽往生を願うのでした。

     
あー、やっと終わった終わった!

   ちょいとお待ち!これからが晶子の世界だよー。

 
   ほととぎす治承寿永(じしょう・じゅえい)のおん国母(こくも)
       三十にして経よます寺    
(詩歌集『恋衣』9番歌)
   
   ほととぎす鳴く初夏、治承〜寿永時代を治めた
安徳天皇のお母様建礼門院が、
   三十才の若さで出家してお経を読んでおられる寺なのだよ、ここ寂光院は。

   歌に詠まれているのは、新緑の中で、ほととぎすの鳴く声とお経を読む声しか聞こえ
  ないような、とても静かな場面だと思うのです。京都の市街地からかなり北に離れた大
  原は春が来るのが遅いので、初夏といっても涼しいぐらいで。でも、お経を読んでいる
  
建礼門院徳子さんは、高倉天皇のお后・安徳天皇のお母さんとして、とても華やかな
  時代と、戦いの中で子どもや親兄弟をみんな亡くしてとてもつらい時代の両方を生き抜
  いてきたわけです。その激しさと静かさとを詠み込んでいる歌なんですね。

 

  その三

   
後白河法皇(ごしらかわほうおう)の反乱の計画がつぶされた次の年、高倉天皇(たか
  くらてんのう・・やっと名前を思い出したわ・・・影が薄い?)
のお后である、平清盛(たいらの
  きよもり)
の娘の徳子(とくこ)は、男の皇子(みこ)を生みます(クーデターの恩赦が出たの
  もこの関係です)
。この皇子が、治承(じしょう)4年(西暦1180年)4月22日、わずか数え
  の3才
(ということは今の2才!)で即位した、安徳天皇(あんとくてんのう)なのです。

   そこで!お母さんの
徳子さんの経歴をさぐってみましょう!

   
ミケねーちゃん、ワイドショーのレポーターみたいーーー!

   まっ、お下品な!
(ううっ!)ささ、原文の『平家物語』に、いきましょう!
  
   「十五にて女御
(にょうご)の宣旨(せんじ)を下され、十六にて后妃(こうひ)の位に
    備わり、…二十二にて皇子御誕生、皇太子に立ち、位につかせ給ひしかば、
    院号
(いんごう)(こうぶ)らせて、建礼門院(けんれいもんいん)とぞ申しける。
    入道相国
(にゅうどうしょうこく=平清盛)の御娘なる上、天下の国母(てんがのこく
    ぼ)
にてましましければ、世の重うしたてまつる事なのめならず。」
    
(『平家物語』灌頂巻より)

   (西暦1155年 
平清盛の次女として誕生)
    →15才で天皇のヒラの奥さん、でも身分は高い方の「女御」でスタート。
    →16才でお后のトップ「中宮(ちゅうぐう)」になる。
    →22才で天皇の後継ぎを生む。
    →(24才で)子どもが天皇になった(
安徳天皇)ので、「国母」=天皇のお母さんと
      いう女院
(にょいん)の称号「建礼門院(けんれいもんいん)」をもらう。

   
徳子さんってば、女性の出世コースをまっしぐら!特に、この"女院"なんて、平安
  時代末当時は女の花道の"上がり"みたいなもの。皇族の生まれじゃないから、玉の
  コシなわけね。ああ、あなたはフヨウ
(ハスの花)のようだ…。

  
 何じゃ、そりゃ。

   だってそうホメたたえられているんだもの。美人だってことね。
   
   そして、63才の
平清盛は天皇のおじいさんになってますます地位を固め、栄華を
  極めたのです。しかし、実はその前の年、
清盛は、頼みとする長男の重盛(しげもり)
  を亡くしていました。おまけに、都は大風・大地震と天災続きで、多くの人が亡くなり
  ます。
重盛亡き後、清盛は、閣僚人事で平家が軽んじられたなどと激怒し、大臣ら
  閣僚は総辞職、いったんはふだんの御所に戻っていた
後白河法皇も再び閉じこめ
  られる身となりました。平家一門にとっておめでたい、
安徳天皇の時代が来たのも
  つかの間、その直後に、主に関東にいる源氏つまり平家のライバルに対して、平家
  を倒せ!の「命令」が出たのです。

   
ミケねーちゃん、ストップ!ここで一休みしよう!!(疲れたよ〜!)

   人がせっかく盛り上がっている時に…!でも、次回は晶子の歌が登場です!


 

  その四
 

     治承4年
(西暦1180年)に、平家を倒せ!の「命令」を出したのは、後白河法皇(ご
   しらかわほうおう)
の第3皇子、以仁王(もちひとおう)。源氏の一人、源頼政(みなもとの
   よりまさ)
に説得されての事で、以仁王自身が頼政と一緒に滋賀県の三井寺(みいでら、
   正式名は園城寺[おんじょうじ])
で反乱を起こします。でも平家は大軍勢、以仁王は今
   度は奈良の興福寺
(こうふくじ)を頼っていこうとしますが、宇治橋の戦いで負けてし
   まい
頼政は自殺します。奈良に落ち延びようとする以仁王に、平家方の武将飛騨守
   景家
(ひだのかみ・かげいえ)の軍勢が、京都府南部の光明山の神社で追いつき、矢
   を射かけます。

     「宮
(=以仁王)は三十騎ばかりで落ちさせ給ひけるを、(景家は)光明山の鳥居
      の前にて追っ付きたてまつり、雨の降る様に
(以仁王に)射まいらせければ、
      いづれが矢と覚えねど、宮の左の御そば腹に矢一筋立ちければ、御馬より
      落ちさせ給ひて、御首とられさせ給ひけり。」
      
(『平家物語』巻四「宮御最期(みやのおんさいご)」より)

    たくさん射かけられた矢の1つがどれだかわからないけれど、左の脇腹にあたり、
   
以仁王は馬から落ちて、駆けつけた平家方の武士に殺され、首を切り落とされたの
   です。皇族なので、戦う方法なんてほとんど知らない30才の以仁王でした。
   季節は5月の下旬。

     さあ、ここでやっと晶子の歌がお目見えです。
 
 
     ほととぎす過ぎぬたまたま王孫(おうそん)
        金の鎧(きんのよろい)を矢すべるものか    
(詩歌集『恋衣』19番歌)

    ほととぎすが通り過ぎたよ、ちょうどその時たまたま、天皇のご子孫の、黄金色の
   ヨロイをなんと矢が滑るようにかすめていくじゃないか。
    以仁王は、正確に言えば"天皇の孫"ではないですし、
源頼朝(みなもとのよりとも
   =清和[せいわ]天皇の子孫)
なんかの方が、当てはまるのかもしれません。

   
じゃあ、誰でもいいんじゃない?

    うう・・・まあ、誰でもいいと言えばそうなんだけれども、
以仁王の死の場面にあて
   はめてみると晶子の歌がいっそう引き立つのよね。「金」は「王孫」にふさわしい高
   貴な色、たぶん晶子好みの色。初夏の青葉に鳴くほととぎすが飛んで横切った、
   ちょうどその時というシャッターチャンスをねらって、季節のさわやかさと死が襲う
   はりつめた鋭さが入り交じるのを、さりげなく描いた…。 ねえ、タビ?

   
・・・・・・グ・・・・・ZZZ

 

  その五


    
以仁王(もちひとのおう)の反乱に怒った平清盛(たいらのきよもり)と平家一門は、以
  仁王の味方をした滋賀の三井寺
(みいでら)、お次は奈良の興福寺(こうふくじ)に大攻撃
  を仕掛け、この時、東大寺
(とうだいじ)の大仏様も燃やしてしまいます。

   
え〜、あの奈良の大仏って奈良時代に作ったものじゃないの〜?

    (作り直したわけね!)平家一門は、その一方で、
安徳天皇(あんとくてんのう)が即
   位してまだ2ヶ月も経たない治承4
(西暦1180)6月3日、日本の首都をこれまで
   400年近くもずっとあった京都から、平家が根城としている福原
(ふくはら=今の神戸市)
   へ移してしまいました。12月には京都に戻って来るんですけどね、閉じこめていた
   白河法皇
も道連れでした。平家一門のやりたい放題、世間は大事件続き。

    でも、平家を倒せ!の「命令」は、命じた
以仁王本人の死後も、源氏の武士たちを
   次々と立ち上がらせます。その中心となる武将が
源頼朝(みなもとのよりとも)でした。
   父の
義朝(よしとも)を平治の乱(へいじのらん)清盛に殺された時、命拾いして神奈
   川県の伊豆に閉じこめられていたのです。
頼朝は、後白河法皇からも平家を倒せ!
   の「命令」を密かにもらい、いとこの
義仲(よしなか)や弟の義経(よしつね)たちと手を
   組み、平家一門を攻めていきます。特に、長野県で勢力のあった
木曽義仲(きそ・よし
   なか)
は、いち早く京都へ攻め上ってこようとしました。

    そんな中、
平清盛は重病に倒れ、「頼朝が首をはねて、我が墓の前に掛くべし!」と
   言いながら死んでいきました。治承5(西暦1181)年閏2月
(うるうにがつ、閏月=昔の
   カレンダーで臨時に作った月)
2日、64才。天皇の祖父となってまだ1年も経たないうち
   の死でした。それから平家一門が源氏に敗れるまでは、あっという間なんですね。

    寿永
(じゅえい)2年(西暦1183年)7月25日の明け方、平家一門は、まだ6才の安徳
   天皇
(あんとくてんのう)とその母建礼門院(けんれいもんいん)つまり徳子さんを道連れに、
   福原へと都
(みやこ)落ちしていきます、行きがけに、屋敷に火を放って…。

   
ミケねーちゃん、京都が大火事だ!今だ!焼ける前に早く、貴族のお宝を持ち出そう!
 

    …平家の手を逃れた
後白河法皇は、今は亡き息子高倉天皇の第4皇子(4才)を天
   皇にします。この第4皇子、つまり
後鳥羽天皇とそのお兄さん安徳天皇、という2人の
   天皇が日本にいる異常事態となったのです。

    そういえば、平家の軍勢を追い落とした
義仲は法皇から位をもらいますが、我が物
   顔に京都を治め始めたため、粟津(あわず=滋賀県)の合戦で
義経たちに討たれてし
   まいました。でも鎌倉時代、つまり源頼朝の武士政権が誕生するのは、もうすぐなの
   です。

   
で、アキコは??…

 


その七
 おすすめ本 あなたはどのタイプ?
<参考> 平家物語 系図