第一章 −鉄幹との出会い−

  物言ひてもえぎの蚊帳をくぐり来る我児は清しうら寒きほど 鉄幹
 

 
大正4年、鉄幹43歳の時の作品です。
 下7の「うら寒きほど」は文法的には「清し」を強調しているのですが、ここは我児を見ての鉄幹の心境と取りたいと思います。我児が清ければ清いほど、自分の心はうら寒く冷え冷えしていくと。何やら物を言いながら蚊帳に入ってくる児は、親にとっては限りなく可愛いものです。その可愛くてたまらない子供に心を寄せられず、身にまとわりついている冷え切った心を嘆いています。 我児を愛しく思えば思うほど、うら寒い気持ちは増幅されていくのです。親として父として、これ以上の悲しみはないかも知れません。
 
 この作品に出会い、私は与謝野鉄幹をもっと知りたい、彼の軌跡を追ってみたいと思うようになりました。何故なら、「うら寒きほど」を実感する場面が私にもあったからです。
 30代も半ばを過ぎた頃、私の心は病み荒んでいました。毎晩のように家庭の中で怒声を放ち、その夜も妻は泣き、諍いの後の言い知れぬ空虚な空気が部屋を漂っていました。そんな折、3歳になるかならないかの長男が急に起きてきて、私が教えた空手の突きのポーズを見せます。まだ言葉を言えない少年は、そのポーズを何度何度も繰り返しながら、私にこう伝えていたのでした。 「お父さん、お母さん、事情はわからないけど仲良くしてよ。ほら、お父さんが教えてくれた空手の型、こんなに出来るようになったよ」物言えぬ健気さに愛しさが込み上げました。しかし、私の荒んだ心は「うるさい!お前に何がわかる」という言葉を呑みこみ、彼を払いのけようとする動作を堪えるのがやっとでした。悲しかったです。言いようのない情けなさと行き場のない寂しさが心を占めていました。生涯、親として恥じなければならない思いを抱いた瞬間でした。こんな心境を、親として決して言いたくない極限の気持ちを鉄幹は「うら寒きほど」と表白したのです。
 
 どこまで自分に正直に生きれば気がすむのだ、どこまで自分をいたぶればいいのだ、この歌と出会った時、鉄幹という稀有な馬鹿正直者に私は脱帽するしかありませんでした。そして、彼の歌をもっと読んでいきたいと素直に思ったのです。 今、この原稿を書いている時、物言わぬ少年は既に高一になり、野太い声で「髭剃り貸してくんねえ」と声をかけてきます。凝縮された時間を紡ぎながら時は流れているようです。

 第二章 −晶子は知っていた−

 
 晶子は亡くなるまで鉄幹に恋をし続けたと言われています。
 彼女の晩年の歌集『白桜集』にも鉄幹を切実に恋う歌が収載されています。
 
 
 我れのみが長生の湯にひたりつつ死なで無限の悲しみをする 晶子
  君知らで終りぬかかる悲しみもかかる涙もかかる寒さも 
晶子

 晶子が聡明な女性であることは論を待ちません。その歌や評論から十分伺い知れます。では、なぜ彼女は生涯鉄幹を愛し続けたのでしょうか。世間でいう「だめ男鉄幹」の評価が本当だとしたら、聡明な晶子が生涯鉄幹を愛し続けていたことが不思議でなりません。その謎は、鉄幹のこの歌を読むことで解けていきます。
 
 
 群青の海のうねりのかたぶけば白きつがひの鴎ながるる 鉄幹

 この歌は『鴉と雨』という詩歌集に掲載されています。大正4年「明星」廃刊後7年を経過し、鉄42歳の時に刊行されたものです。この『鴉と雨』は文壇からほとんど評価されることもなく、静かに自費で出版されました。晶子は自著『晶子歌話』の中でこの歌をこう解釈をしています。

  「表面は鴎の歌のようですが、実は平和と美と愛の中に快濶な生活を送ろうと
   する作者の理想を暗示しているのです。鴎は作者の心境そのものであるのです」

 この一文を読み、晶子は夫鉄幹を正しく理解していたことに気づきます。鉄幹が何を希求し生きていたのかを。晶子はきっとこう思っていたのではないでしょうか。この人に経済的甲斐性や闘争意欲を求めても無理、それよりも根っから平和と愛と美のある暮らしを求める、その純粋な気持ちを信じてあげることが鉄幹にも自分(晶子)にとってもベストな選択であることを。鉄幹の純粋無垢な詩魂に触れることが、晶子の創作意欲をさらに掻き立て、晶子自身の生きる原動力になっていたことが想像されます。
 さて、歌は流麗な調べにのり、青と白のコントラストも鮮やかです。何と言っても結句の「白きつがひの鴎ながるる」が素晴らしいです。とりわけ「ながるる」と平明な言葉で最後を綴り、自然に身をまかせ生きていこうとする万感の願いが込められています。さらに、背景にはこんな思いを託しているように感じます。

  「大海のうねり、それは人生の浮き沈みかもしれない、試練かもしれない。いくたびも
   傾く波の上を私は、愛しい人と二人で渡っていきたい。それが私の願いです」

 鉄幹と同年代を生きてきた男として確実に言えることは、この歌は男が伝えられる最大限の妻晶子への愛の絶唱であるということです。願わくば、生涯に1度私もこんな作品を妻に捧げたいと思いますね。この歌を読んだ晶子の心は、長く連れ添っていたにも関わらずさらに深く鉄幹へ傾斜していったことは想像に難くありません。
 さて、蛇足ではありますが、同様の風景を詠った歌で若山牧水のこの歌を思い浮かべます
 
 
 白鳥はかなしからずや空の青海の青にも染まずただよふ 牧水

 牧水は鉄幹の『鴉と雨』の前の歌集『相聞』が出版された時、こう述べています。

  「主題や表現法等の表面的な新しい変化は見られるが、その根底には何ら新味もない。
   粉飾し、作為し、やがて全然自己を遊離し去った芸術というものに何の意味がある
   のであろう」

とかなり辛辣に酷評しています。
 当時は、より新味を求めることが詩人にとって大事なテーマであったのでしょうが、今時代を経て、鉄幹の歌と牧水の歌を並べ読んでみると、託した思いの違いはあるにせよ、むしろ未来の幸を希求した点で鉄幹の歌の方に軍配を上げたい気持ちがあります。
 『相聞』『鴉と雨』にはかなり佳い歌が収載されていますが、文壇の中では評価を受けることもなく見過ごされていきます。当時、自然主義が台頭し、その流れに押し潰されるように「明星」を廃刊した鉄幹は、勝ち組と負け組という単純な図式の中で負け犬とみなされ正当に歌の評価さえしてもらえなかったのです。

第三章 −大空を恋うた歌人−


 
晶子と鉄幹では断然晶子の方が歌がうまいというのが大方の世間の評価です。
 2人を良く知る歌人吉井勇は、鉄幹晶子の長男である与謝野光氏に晩年こう語っています。「やっぱり晶子さんより寛先生(鉄幹)の歌の方が上だ」と。それを聞いた光氏は、本当にそうだと思うと自著『晶子と寛の思い出』の中で綴っています。

  「父の歌の骨格みたいなみたいなもの、作意としては父の方が上だったいうことを
   吉井さんは言いたかったんでしょう。ただ、一般受けするという点になると、題
   目なり材料なり、そういうものを選ぶのは母が上手かったから皆さん母の歌を好
   みますけど、好むってことと評点というものは必ずしも同じじゃないですから…」

 光氏は短歌を詠まれないのですが、見事な分析のように思われます。他のお子様たちも、母晶子の歌の評価に比べ、父鉄幹の評価があまりに低いことをさびしく思っているということを今もお聞きします。

 私の評価はこうです。
 確かに、鉄幹には晶子のような「やは肌のあつき血汐にふれも見でさびしからずや道を説く君」「ああ皐月仏蘭西の野は火の色す君も雛罌粟われも雛罌粟」人口に膾炙された歌は少ないのですが、こと歌の巧さに関しては、鉄幹の方が勝っていると思っています。

 晩年、鉄幹と晶子はよく仲間と連れ立ち吟行に出かけています。
 昭和10年の冬、神奈川県の三浦半島の観音崎灯台へ旅をした折の二人の歌です。


  まだ知らぬ清さなりけり燈台の曲れる段をわがのぼる音 鉄幹
  
燈台の螺旋階尽き仰ぐなり菊花と似たる九万燭光  晶子

 この歌だけで、評価を下すのは無謀以外の何ものでもありませんが、こう述べたところで晶子の評価が下がるわけでもありませんから、敢えて鑑賞を試みたいと思います。晶子の菊花という万人受けする比喩に対して、鉄幹は天への憧れ、もがき苦しんだ末に得た今の歌境を素直に詠い上げています。その澄明な冴えを考慮すると、歌の評価は鉄幹に傾くような思われます。この旅に出る前、その打ち合わせで友人たちと春灯の華やぐ数奇屋橋のレストランでこんな歌を詠んでいます。

  くれなゐと白の外には色もなき階上階下春の灯ともる 鉄幹
   忘れざる心の奥の巴里をばカアネエションのそそる赤さよ 鉄幹

 陰影のくっきりした華麗な歌です。早春の旅を思い、屈託のない老境を静かにかみ締めているように詠っています。骨格も確か、すっきりした歌姿に好感を覚えます。鉄幹は晩年になるに従い、過去の苦渋に満ちた人生を乗り越えた自由で静謐な心境を詠った作品が多くなります。

  痩せし木がみな日にあたり影を伸ぶ我れもまじりて冬に坐らん 鉄幹

 人口に膾炙されずとも、生まれもったおおらかな作風に、60余年の年輪の厚みが加わり、諦観と愛憐の情が漂います。俳人高野素十の言葉に「俳句以前」という言葉がありますが、晩年の鉄幹は「歌以前」の心境に達し自在な心で高きを見つめていたようです。
 さて、三浦半島への旅で鉄幹は感冒におかされ翌月には慶応病院に入院、それから2週間も経たぬうちに帰らぬ人になります。亡くなる前日、鉄幹は晶子に「天が見たい」と言ったそうです。前述した歌の「まだ知らぬ清さなりけり」を自分の目で確かめたかったのかも知れません。
 鉄幹の墓は晶子と並んで多磨霊園にあります。墓の前の歌碑に刻まれた歌を最後にこの章を終えたいと思います。

  知りがたき事もおほかた知りつくし今なにを見る大空を見る 鉄幹

最後まで天(大空)を恋うた歌人であったようです。 

第四章 −韓国と鉄幹−

 全然関係のないところから本日の話をスタートします。
 1999年10月の日韓閣僚懇談会の場で、日韓の文化交流が正式に合意されました。以来、韓国における日本大衆文化の段階的開放が加速され、日本の文化が韓国の人々に幅広く受け入れられるようになりました。
 また、日本においても、韓国の映画、テレビドラマ、音楽、舞台芸術や生活文化が広く浸透し、以前にもまして高い関心を持って迎え入れられています。「冬のソナタ」のヨン様ブームも、この流れの中のことで日韓が身近になったことはとても喜ばしいことだと思っています。
 ただ、歴史を振り返れば、日本は韓国に随分ひどいことをやってきました。
 1908年に発生した閔姫
(みんぴ)事件もその一つです。当時の日本政府は、領土拡大を狙って大陸への進出を試みていました。朝鮮半島を足がかりに大陸進出を企てる日本政府にとって、ロシアとの関係を強化しようとする国妃である閔姫は目の上のたんこぶのような存在でした。そんな折り、駐韓田中公使を首謀者として軍人、警官、民間人、そして数人の親日韓国人も加わった一団が王宮に押し入り、国王の妃、閔姫を惨殺、その場で遺体を焼き捨てたという途方もないことをしでかしたのです。これが世にいう「閔姫事件」です。政府の直接指揮ではなく、血気盛んな連中の暴動であったようですが、韓国人の日本に対する深い憤りを植え付けた事件の一つです。
 ここでやっとこさ鉄幹の登場です。その暴徒のリストの中に若かりし与謝野鉄幹の名前が連ねられていたのです。事実はそういう暴徒と交流があったということだけで、実際の襲撃の日も知らされてなければ、襲撃の時も鉄幹は別の場所に居ました。リストに名前があったということで日本に強制送還され、広島の裁判所で取調べを受けた後、無罪釈放になっています。幸いにも襲撃には加わってはいなかったのですが、彼がもっと深く暴徒と関わっていれば作戦に加担していたかもしれないという疑念は拭いきれません。何しろ当時の日本には領土拡大を是認する風潮があり、若き青年とって、その中で活躍することはステイタスであった時代でしたから。だからと言って免罪符になるわけでもなく、日本がそういう歴史を経てきたということは紛れもない事実です。
 さて、鉄幹が渡韓した理由は韓国で日本語教師の口が見つかったからです。当時、鉄幹は22歳の駆け出しの歌人で、食うや食わずの生活を送っていましたから、生活の場を韓国に移したのです。その頃の歌をご紹介します。

  
韓山に秋風立つや太刀なでて われ思ふこと無きにしもあらず 鉄幹
  
から山に桜を植ゑてから人に やまとをのこの歌うたはせむ 鉄幹

 いかにも高みに構え、一山当ててやろうとする若き鉄幹の双眸が浮かんできます。これらの歌は後に『東西南北』という歌集に収められるのですが、明治の若者たちには虎剣調の丈夫(ますらお)の歌として大いに受け入れられたようです。このことからも日本全体が大和魂を鼓舞する雰囲気であったことを垣間知ることが出来ます。ただ、この歌集を出したことで、後に鉄幹は好戦的な人間だと見られてしまいます。しかし、どうもこれも違うようです。
 彼は勇壮な大和漢(おとこ)の風姿に美意識を抱いていたようですが、戦争に対しては否定論者でした。それは、この詩から知ることが出来ます。全部を記載出来ないので一部のみの抜粋になりますが「血写歌」という詩です。

   正義とは、悪魔が被ぶる仮面にて 功名は 死をよこばす魔術かな(中略)
  あはれやな 人を殺して涙なく おそろしや 生血に飽きて懺悔せず
  英雄と われから誇り 豪傑と 一世を愚にす (中略)
  あゝあゝ人を殺せよと えせ聖人のをしへかな  鉄幹
 
 この詩は、正義とは何か、戦争とは何か、戦争による人殺しや流血、功名心のために無残に生命を断つ日本魂こそ人間性を抹殺する罪悪ではないかと語っています。ちなみにこの詩は、晶子の高名な詩「君死にたまふこと勿れ」に影響を与えたとも伝えられています。
 発想が重なるところを並べてみましょう。

  「血写歌」を■、「君死にたまふこと勿れ」を▲で示します。
 
   ■あゝあゝ人を殺せよと えせ聖人のをしへかな
   
▲親は刃をにぎらせて 人を殺せと教へしや   

   ■あはれやな
 人を殺して涙なく おそろしや 生血に飽きて懺悔せず 
   ▲かたみに人の血を流し 獣の道に死ねよとは
 
  ■いたはしきかな ちゝ母は 老いてたよりの 子にはなれ  
  ▲すぎにし秋を父ぎみに おくれたまへる母ぎみは
    なげきの中にいたましく わが子を召され家を守り

 
 余談になりますが、晶子の「君死にたまふこと勿れ」は当時、大町桂月らを筆頭に天皇批判の詩として物議をかもし出しました。そんな中、鉄幹は平出修(明星同人の弁護士)を伴い大町桂月に直談判をし批判の矛先を収めさせました。語られることは少ないのですが、妻に詩のヒントを与え、そして世の批判から妻を守った格好良い鉄幹の姿が見えてこないでしょうか。

 さて鉄幹の「閔姫事件に加担した好戦主義者」というレッテルが完全に払拭されたかというとそうでもありません。最近読んだ記事で、ある文化人が日韓交流のフォーラムで与謝野晶子の「君死にたまふこと勿れ」を紹介した際、韓国の出席者から「その詩の作者の夫は、閔妃事件に加わった一人であることを日本人は知っているのか!」という厳しい質問が飛んだそうです。鉄幹という人間は、これだけ時間を経てもいまだ誤解を受け続けている男なんですね。
第五章 −妻晶子を詠うー

 鉄幹はあまり女性陣に人気が高くありませ
ん。何故なのか少し考えてみました。
 多くの場合、鉄幹に関する知識を得るのは、晶子を通じて知ることが多いようです。晶子は女性の気持ちをスカッと言い切り「明星」
に鮮烈なデビューを果たした人ですから、多くの女性ファンを持っています。そのせいもあって晶子に興味を抱くうちに、彼女の夫として鉄幹を知るケースがもっぱらです。新しい短歌の運動を起こし、「明星」を創刊させ、北原白秋、石川啄木、高村光太郎、蒲原有明、木下杢太郎・・・等のあまたの文人を世に出した功績はあまり評価されず、むしろ、山川登美子と浮名を流したり、家計が火の車の中でも定職を持たず、13人の子育てをしながら創作活動に励む晶子に巣食う駄目男のイメージを強くもたれています。晶子ファンである多くの女性の視点によって、そんな駄目な亭主の鉄幹につくした献身的な妻という図式がきれいに築き上げられていったように思われます。確かに、それを裏付ける歌も残っています。次の二首は山川登美子が亡くなった時と1周忌に鉄幹が詠んだ歌です。これを解説すると、私も女性から大いなる反感をかうことになるかも知れませんが、あえてやってみましょう。

 
 君なきか若狭の登美子しら玉のあたら君さへ砕けはつるか 鉄幹
   君しのぶ心の上に花ちりてうすくれないゐに悲しき四月 鉄幹

 歌としては、1人の女性に捧げる思いが切々と込められています。1首目の「砕けはつるか」の詠嘆には、共に新しい短歌を切り開いていこうという夢を語った時期もあったのに、今はその夢さえも砕け果てたという万感の思いを重ねています。2首目も、1年が経過し君がいない悲しさを情感あふれんばからいに伝えています。この2首を読み、男性心理、男のロマンとして「あり」だと思っています。共感出来るのです。しかし、立場を代え女性として妻として、このような歌をのうのうと詠む夫を持った場合、許し難い心情になるのも十分うなずけます。冒頭に言いましたように晶子ファンは圧倒的に女性ですから、この1点だけでも鉄幹許さじ!の感情が出てくるのは自然なことかと思います。

 もう1つ鉄幹の高名な詩を掲げます。

  妻をめとらば才たけて みめ美わしく情ある
  友を選ばば書を読みて 六分の侠気四分の熱
 鉄幹

というご存知「人を恋うる歌」の冒頭です。旧制三高(京大)の寮歌とし有名になった詩ですね。このフレーズも、そのとおり!と言う
男性は多いことと思います。しかし、女性から見れば、勝手なこと言って!という不満が出るかも知れません。

夫を選ばば財ありて 身長高く美男子で・・・

と詠われたらどんな気分?という逆襲が来そうですから。これらは、鉄幹の馬鹿正直さが裏目に出た例ですが、こんな歌を紹介すれば、世の女性方の鉄幹評価も高まるのではないでしょうか。晩年、晶子と2人で那須へ旅した時、晶子が持病の狭心症で床に伏します。それを看取った折の鉄幹の心境詠です。全部で36首の連作ですが、その中からいくつか。

 
 人の屑われ代り得ば今死なん天の才なる妻の命に 鉄幹
  わが妻は賢けれども病む日には少し恨めり足らぬ我れゆゑ 
鉄幹
  いたましく妻の病む日は我がこころ岩山のごと冷えて守りぬ 
鉄幹
  一切を身より放てる我れなれど唯だ抱だけるは妻の真心 
鉄幹
  ぬかづける心あれども我妻にぬかづかざりき今はぬかづく 
鉄幹

 嘘偽りない鉄幹の心境が垣間見えます。1首目は、代わりに自分の命を捧げると伝え、2首目は、少しわがままになった晶子のリクエストに応えきれない我が身を自嘲しています。3首目は、何も出来ない自分を冷えた岩山に喩え、4首目は全てを放ってきた自分であるが妻の真心だけはいつも心に抱いていると表白しています。5首目は、今まで謝辞を述べる気持ちはあったがやってこなかった。今は心から額づいてお礼を言いたいと告げています。
 こんなふうに歌を詠まれた晶子はきっと幸せに違いないと思います。晶子が生涯鉄幹に恋をしてきたと言ってはばからなかったのも、十分うなずけますね。
 鉄幹は決して駄目男ではなく、世間や女性に対して不器用であり、その愚直さと純粋さゆえに歪曲されたり要らぬ詮索を浴びてきました。また一人の詩人としてではなく、常に晶子の夫としてしか見てもらえなかったところに彼の不幸(評価の低迷)があったようです。
第六章 −家族を詠う−

 鉄幹には家族を詠った歌が多くあるのも特徴です。
 その歌を知るにつけ、家族を詠わせたら比類なき才能を発揮する人だなと思うようになりました。普通、家族を詠った歌は出来るだけ私的な事柄や固有の事情を排して作るのが一般的です。あまり固有なことを綴って、歌に普遍性がなくなることを恐れるからです。

 ところが、鉄幹は固有のことを排するどころか逆に前面に押し出し自らの世界へぐいぐい読者を引き込んでいきます。これは、背景に人を大事に思う気持ちがあり、そこに筆の力が加わって初めて成せることだと考えます。
 能書きはこのくらいにして早速ご紹介することします。今回は、鉄幹ファン拡大のため出来るだけ多くの歌を読んでいきたいと思います。

  
兄ありき檜林をすぢかひに馳せて帰らずなりにけるかな 鉄幹

 事情はわからずとも、何か胸に押し迫ってくるものがあります。鉄幹の筆の力でしょう。
 余韻を生み出す「ける」「かな」はこうやって用いるのだというお手本のような感じもします。
 この歌は、年の一番近い兄(三男)が家出をした時の生々しい光景を晩年になって詠んだものです。鉄幹年譜によれば、徴兵を嫌っての出奔だと書かれています。その兄は、その後消息を絶ち生涯その姿を見せることはありませんでした。
   
  
我弟(わおと)らと比叡に降りけるしら雪を蹶(く)ゑはららかし雄叫(たけ)びするも 鉄幹

  鉄幹は四男です。直後の弟(五男)と共に遊んだ記憶を辿り作ったものです。蹶(く)ゑはららかしとは、蹴散らしてという意味です。比叡という固有名詞が臨場感を高め、雪の上で雄叫ぶ二人の少年の声が届いてきそうです。いつの世も少年はかくありたいものですね。
 

  
幼き日われ馬となり弟よ君を乗せにきその馬は老ゆ 鉄幹

 これも晩年になり、五男の弟を詠ったものです。過去と現在を重ね合わせそこに流れた月日に思いを寄せています。社会的なことを全部とり去った時、そこに残るのは個と個のつながり以外何もないということを穏やかに告げてくれています。

  
いもうとは忍びて咬めと炒豆を包みて入れぬ夜半のさ寝所(ねど) 鉄幹

 6つ下の妹との思い出を詠ったものです。兄を慕う妹の姿が情感深く描かれています。彼女は後年、鉄幹・晶子夫婦が渡欧した際、日本に残した子供の面倒を見、与謝野家の留守を守った女性でもあります。

 続いて与謝野家の風景を五首ほど。

  
その父はうち打擲(ちょうちゃく)すその母は別れむと云ふあはれなる児ら 鉄幹

 鉄幹の歌の中では比較的有名な一首です。そのため、鉄幹は癇が強く子供たちに暴力をふるう父親というイメージを持たれています。こういう歌は仮に出来たとしてもあまり歌集に収載しないのですが、そこが損得を考えない馬鹿正直な鉄幹らしいところです。
 暮らしの中には、こういう風景もあれば次のような風景もあるのです。

  
あたたかき飯(いひ)に目刺の魚添へし親子六人(むたり)の夕がれひかな 鉄幹

 夕がれひとは夕食のことです。貧しくとも暖かい団欒、幸せとは金銭と無縁に存在するということを告げているようです。

  
わが家の八歳(やつ)の太郎が父を見てかける似顔は泣顔をする 鉄幹

 子供の絵を描く技量が備わってないのではなく、父の心の在り様が既に泣顔になっていたのでしょうか。息子の前では強く頼もしい男でありたいと願うのは父親共通の願いです。それが叶わない現実にほろ苦さが漂います。
 
  
さびしげに群をはなれて小学の庭に立てるは父に似るかも 鉄幹

 母親は子供個人を見ます。父親は社会の一員として子供を見つめます。群(学校社会)の中にあってそこに馴染めない子供をじっと眺める父。叱咤激励したい気持ちと個を尊重する気持ちが交錯し、やがて人生に惑う自身の姿に重なっていきます。

  
蜜柑箱ふたつ重ねてめりんすの赤き切れしく我が子等の雛 鉄幹

 今年も雛の節句が巡ってきます。小さな蜜柑箱を二段に重ね、めりんす(薄い毛織物)の赤い残り布を敷いた急ごしらえ雛壇。その上には形ばかりの雛が飾られています。娘の親としては、見るのに忍びない貧しい雛飾りの風景です。感情移入を避けて素朴に詠っていますが、それが逆に哀れさを増幅させています。

 いかがでしたでしょうか。
 与謝野家の父親は、格好良くない父親像を営々と歌い続けます。私も父親業をやって10余年、この格好良くない父親鉄幹がすごく素敵に見える年代になりました。

 最後に鉄幹の父と母、そして妻晶子を詠った歌をご紹介して、この稿を了とします。

  
世に壓(お)され時に醜くまどへども父を思へば一すぢとなる 鉄幹
  わがこころ時に乱るる奥に猶母のすがたの笑みたまふかな 鉄幹
  わが妻は藤いろごろも直雨
(ひたあめ)に濡れて帰り来その姿よし 鉄幹

 皆様の目に1人の家族思いの純朴な男の姿が映ったとしたらすごく嬉しく思います。
第七章 ―技巧派鉄幹―

 歌人であり民族学者である釈超空(折口信夫)氏は、こう述べています。
 「何と言いましても鉄幹さんの歌及び詩における実力は大したもので、晶子さんは、技巧の上においてはあれまでには達せずにおわったかと思います」
 技巧では鉄幹の方が晶子より優っていると言っています。
 かねてより私も鉄幹は歌が巧いと思っていましたので、鉄幹の歌を読みながら「技巧」について考えてみました。と言いましても、難しいことを考えたわけではなく、簡単に言うと一読後「巧い!」「技あり一本!」と声をかけたくなる歌を集めてみたのです。「巧い!」とはイチローのヒットのような感じと言ったら良いのでしょうか。智が働き頭で作った歌ですが、その巧さが見事なので思わず「巧い!」と叫んでしまう感じです。天才肌の晶子の歌は、読者を感動の世界に一気に誘う力があるのですが、鉄幹の歌には一首一首を叩いて叩いて磨き上げていく刀鍛治のような趣きがあります。

 それでは、刀匠の技巧に長けた歌をいくつかご紹介します。

  
地震(なゐ)の朝胸乳(むなぢ)いだける惘(あき)れがほ
    見きとは云はぢ酒せよ刀自女
(とじめ)  鉄幹   『相聞』所収
 

 胸乳(むなぢ)とは古事記の神代の巻に出てくる古色のある語で、意味は読んでの通りです。刀自女(とじめ)とは催馬楽という古い宮廷歌謡に出てくる詞で主婦または婦人の尊称です。
 歌の意味は、突然の地震にびっくりし、はだけた胸をおさえて呆然していた今朝のあの顔を見たとは言うまい。その代りにさあ酒の支度をしておくれ、奥さん…という感じです。古典に造詣の深い鉄幹ならではの作品ですね。古語を用いたり、古典を題材にした歌は多くありますが、ここまでおおらさと諧謔味を出した歌は数少ないです。その古雅の風味ににニンマリし、思わず「巧い!技あり一本!」と唸ってしまいます。

  
ころべころべころべとぞ鳴る天草の
   古
(ふ)りたる海の傷ましきかな 鉄幹   『相聞』所収

 この歌も解説が必要です。
 「ころべ」とは改宗しろ(転べ)という意味です。天草は島原の乱以降キリシタンに対する苛酷な弾圧と痛ましい殉教の歴史をおりなした島です。作者は天草の浜辺に立ち、その耳には繰り返す波音が「ころべ、ころべ、ころべ」と聞こえているのです。リフレインの手法にキリシタンを偲ぶ哀切の情をたっぷりのせた浪漫的な歌です。この歌が「明星」に発表された時、結句は「懐かしきかな」でした。後に「傷ましきかな」に改作し歌集に収載しています。この改作でさらに歌に深みが出て熟成された一首に仕上がっていますね。やはり、前首同様「巧い!」という言葉が素直に飛び出ます。

 また、この歌は北原白秋の「邪宗門」吉井勇の「酒ほがい」等に影響を与えたと言われています。ただ、この作品が生まれた頃の文壇は自然主義が勃興し始めた時期にあたり、ほとんど評価されなかったようです。時節さえ合えば、鉄幹を代表する歌になっていたのではと思っています。

  
酒がめをくつがへさずば酒盡(つ)きず
   君を捨てずば君を忘れじ
  鉄幹   『鴉と雨』所収

 「酒がめをひっくり返さなけれ酒は無くならないだろう、君と別れなければ君を忘れないだろう。でも別れてしまえば忘れるよ、きっと…さあどうする?私には覚悟出来ています」という感じです。ぞくっとするような脅し文句ですね。事の良し悪し、歌の背景は別にして、二重否定を用いたシャープな言い切りが見事です。巧さ光る一首だと思います。

  
罌粟咲きぬ思ふは矮(ひく)き屋根裏の夕焼に寝て吸ひし唇  鉄幹  『相聞』所収   

 鉄幹の歌にして珍しく妖艶な歌です。血のように真っ赤な罌粟(けし)の花が咲いている。その妖艶な花の色を見て、貧しい家の屋根裏で夕焼けが射す中、口づけした、そんなことふと思い浮かべたという歌です。罌粟の花の色、夕焼けの色、女の唇の色、すべて強烈な赤の色調で鮮明に描いています。狙って作った感もなくはないのですが、何故か頽廃的な匂いがして、その「巧さ」の前に離れ難さを覚えます。

  
濃き青の四月の末の海に浮く水母(くらげ)の如く愁白かり  鉄幹  『槲の葉』所収

 結句の「愁白かり」は芭蕉のこれらの句を彷彿させます。
 
  海暮れて鴨の声ほのかに白し石山の石より白し秋の風

 きっと鉄幹には、愁いを白の色感で捉えたこれらの俳句が念頭にあったのではと想像しています。仮にそうであったとしても、芭蕉も了解し得るぐらいの巧さがあります。水母の色を白と直喩し、同じ白で愁いを暗喩しています。さらにその愁いの要因は大海原をはかなげに漂う水母のような己の生であると伝え、巧みな演出を施しています。
 少々複雑な構成ではあるのですが、そこは助詞の「の」を四回も多用し、乗せ読みやすくそして流麗な調べに仕上げています。無条件に技あり一本!を差し上げたいですね。

  
美しき心に空を書きたれば
   明星は打つ黄金
(きん)のピリオド  鉄幹  『全集』所収
  
落つる日を歌ひて長き間(ま)をおけば
   ダッシュを引きぬ近き木の影
  鉄幹    『全集』所収 

 同じ傾向の歌を二つ並べました。ピリオドとダッシュ、いかにも機知を効かした歌ですが、歌われてみるとそのお洒落さに脱帽の感があります。ここまで完成度が高いと、技巧も芸の領域です。悔しいぐらいの心地良さが胸に残ります。

 

 
*今回は、中晧著『与謝野鉄幹』を大いに参照させて戴きましたので記させて戴きます。この本は、今は古書店にしか置いてないと思いますが、私が鉄幹を知るきっかけになった本です。機会がありましたら、是非ご一読下さいませ。もう一冊、上田博著『与謝野鉄幹・晶子 心の遠景』という著書も参考文献にさせてもらっています。この本も優れものです。インターネットで買い求めることが出来ます。